冬桜 九の一 作・風間銀灰

突然兄が来た。ついこの間手紙が届いたばかりだったので、男は少なからず驚いた。 「手紙を出してすぐに、思い直して直接来ることにしたのだ」 彼は説明した。つまり、男の返事が届くのを待たずして出発したのだ。ではあのそっけない返事の自分の手紙は、今頃母が読んでいるのだろうか、と、男はぼんやり考えた。 兄は、三年ぶりに会った弟の、痩せた体を、蒼白い顔を、そして絶望と儚い希みが複雑に入り混じって…

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冬桜 九の一(続き)作・風間銀灰

再びの思いがけない言葉に、男はぴくり、と肩を震わせた。そして、口では答えずに、ゆっくりと首を左右に振った。 「…そうか」 また沈黙が流れた。その気まずさを振り払おうと、男は慌てて太一(たいち)は元気か、と尋ねた。太一とは、兄の息子の名だった。 「ああ、皆達者だ。…しかし母が少々老いた」 あの母が老いるというのも、男にとって意外な話だった。 「翔はあまり丈夫に生んでやれなかった、可哀想…

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冬桜 九の二 作・風間銀灰

まず医師の家を訪れた。医師と兄の二人が話をしている間、男は縁側で陽光を浴びながら父のことを思った。 父と会話をしたという記憶はほとんどない。まだ自分は頑是なかったから無理もなかった。だから、思い浮かぶのは、主に視覚的記憶だった。書物に向かって座っている、芯の通ったまっすぐな、大きな背中。 そして男は、兄の横顔を見つめた。そう、確かこの兄のように、凛々しい眉と、涼しげな目もとと、筋の通…

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冬桜 九の三 作・風間銀灰

医師の家を出ると、兄は呟いた。 「腕の良い医者だな。それに、いい娘さんもいる」 男は同意した。 「そうそう、口約束ではあるが、あの娘さんをおまえの許嫁にさせてもらった」 男は目を見開いて立ち止まった。 「なんだ、話を聞いていなかったのか?」 「なんでそんな、勝手に…」 「あの娘さんももうそろそろ年頃だ。看病に出入りするなら、許嫁の方が聞こえがいいだろう。先方は異存ないそうだ。あとはお…

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冬桜 九の四・五 作・風間銀灰

その後何件かの男の友人宅を回り、挨拶を済ませた。 「おまえには、いい友達がいるのだな」 兄の口調は淡々としていたが、表情はどこか嬉しそうだった。そんな顔を見ると男はふと思い出す。初めて自分の名を書いた幼い日、教えてくれていた兄が、今と同じ表情で、「よく書けたな」と言ったときのことを。 家族はない、などと拗ねていたが、家を出ても家族は家族なのだ、と男は妙に素直な気持ちになった。そして、…

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冬桜 九の六 作・風間銀灰

結局兄は、三日間江戸に居て、帰っていった。その間見物するでも何かをするでもなく、ただ弟と縁側に座っていたり、医師の宅を訪れたり、近所の堀の鯉を眺めたりしていただけだった。 「勤めがあるので、これ以上は居られぬ。…春になったらまた来る」 代わりの者を寄越すという兄の提案は、それだけは強固に断った。今以上に悪化したら、医師の方から兄の元へ報せをするということで折り合いを付けた。 去って行…

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冬桜 十の一 作・風間銀灰

兄を少し先の宿場町まで見送ったので、浅草まで戻った頃にはもう暮れかかっていた。家に帰る頃にはすっかり夜だろうな、と考えながら歩いていると、数間先の横町から、怒鳴り声が聞こえてきた。 場所柄居酒屋も多い。酔っ払いだろうと男は見当をつけたが、何か胸騒ぎがして思わず歩を止めた。それとほぼ同時に、横町から女中らしい女が転がり出てきて、男の袖にしがみついた。 「お侍さま、お助けくださいっ、酔っ払い…

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冬桜 十の二 作・風間銀灰

歩きながら男は、己の中に吹き荒れる感情にとまどっていた。自分も無傷で済んだし、相手も斬らずには済んだが、むかむかした気分は晴れなかった。これからでも自分もあのようになるかもしれない、と思ったからだった。 死への恐怖を紛らわすために酒に溺れる。ありそうなことではないか。 そして、思った。斬ってやった方が、あの男のためだっただろうか。武士としての誇りも何もかも失って、酒に呑まれるしか生き…

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冬桜 十の三 作・風間銀灰

家に帰ると、点けてこなかったはずの灯が窓から見えた。中に入ると、医師の孫娘が来ていて、何か汁物を煮ていた。 「翔さま、おかえりなさい。お弁当も作ってきたよ、一緒に食べよっ」 「県殿は?」 「じっちゃは、往診に行ったの。じっちゃもお弁当持っていったんだよ」 娘の笑顔で、ささくれ立っていた神経が完全に鎮まった。 「お義兄さま今頃どの辺に居るのかなあ」 「なかなか健脚だからな。思ったより遠くへ…

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冬桜 十一の一 作・風間銀灰

あんなことがあったにも拘わらず、兄が帰ってからの数日間、妙に体調の良い日が続い た。季節外れに暖かかったからかもしれない。この気候に騙されて、桜が咲いてはくれま いかなどと、冗談とも儚い希みともつかぬことを思ったりもした。 どういうわけか、桜が咲くのをもう一度見られさえすれば、俺は生きられる気がするの だ─。 そんなことが起こるわけもなく、男がいつものように医師の家に向かって歩…

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