冬桜(ふゆざくら)作・風間銀灰

木枯らしが吹き抜けていった。足元の落ち葉が、乾いた音を立てて転がっていく。晩秋の日光は気短で、名残りの薄明りが、辺りのものを全て影のようにしていた。その中でたった一つだけ、ゆっくりと動いていく影があった。 男が一人、黄昏の通りを歩いていた。 辺りにはほとんど人気がなかった。大概の者は、帰宅して家族に囲まれて、夕食の箸を取っている頃だろう。道沿いに並んでいる長屋の灯、賑やかな話し声…

続きを読む

冬桜 一の二・三 作・風間銀灰

医師は、厳つい顔の中老の男で、病になる以前からの知り合いだった。十二、三くらいの孫娘と二人で暮らしている。腕は確かで、患者からの評判も悪くなかった。だが、その腕でも、絶望している男を治癒するのは困難だった。 診るのを終えると、医師はただひとこと、こう言った。 「夕飯を食ってゆけ」 飯はうまかった。いや、うまいのだろう、と言うべきか。食欲がなかった。それでも男がやっと一膳食べたの…

続きを読む

冬桜 一の四・五 作・風間銀灰

帰路の途中、男はふと一本の木の下で足を止めた。それは、葉が数えるほどしか残っていない桜の木だった。むきだしの枝を広げる桜は、黒く、ごつごつした様子が余計に目についた。 枝だけの桜は、何故にこれほどまで無残なのだろう。 もう一度桜が見たい。どういう訳か、男はふと思った。否、理由はわかっていた。桜花を見るには、春を待たなくてはならない。だが、彼には、もう春は巡ってこぬかもしれないのだ…

続きを読む

冬桜 二の一 作・風間銀灰

「千住まで来れば、もうじきですな」 商人の、誰にともなく呟く声を聞いて、男は、もうすぐ旅の終わりだと人知れず微笑んだ。かなりの長旅だったが、あまり疲れを感じていなかった。 彼は、江戸に居る友人を頼って、はるばるやって来たのだった。故郷から遠ざかるにつれて、寂しさを感じるどころか、ある種の解放感が増していた。 別に何かをやらかして故郷を追われたのではない。むしろ、何もしなかっ…

続きを読む

冬桜 二の二~四 作・風間銀灰

男は休憩を終えて伸びをすると、また歩き出した。今日中に無事友人のところに着けるだろう。風は暖かく、春の日は長い。景色を楽しむゆとりもあった。 そして彼は見たのだ。隅田川沿いに、桜が眩しいばかりに花開いているのを。 木の下に寄ると、男は、日の光をはじいて白く輝く花と、少しのぞく青い葉と、若々しくつやのある枝とを見上げた。花をこのように長く見つめるのは、子供のとき以来だった。これから…

続きを読む

冬桜 三の一 作・風間銀灰

医師のもとを訪れてから二、三日経って、友人が様子を見に来た。男を江戸に呼び寄せた、件の者である。彼は男の性格をよく知っていたので、早くよくなれとも、生活を変えろとも言わなかった。ただ、こう言った。 「とりあえず死ぬな。故郷のおまえの母上や兄上に申し訳が立たない」 男は黙っていた。それでも、友人のこんなぶっきらぼうな言葉の裏に、思いやりと、そしてその思いやりを表に出さない気遣いを感じ取…

続きを読む

冬桜 三の二 作・風間銀灰

日差しが照りつける、とても暑い日だった。彼は、ねえやに負われて─今にして思えば、彼女は医師の孫娘よりももっと幼かった─外に連れ出されていた。おそらく、幼児が家に居ては邪魔な何かがあったのだろう。 最初のうちはおとなしくしていたが、暑かったためか、やがて彼はむずがり出した。どうしてそうなったかは、今となってはさっぱりわからない。ただ覚えているのは、急に何もかも腹を立てたくなった、あの爆発…

続きを読む

冬桜 三の三・四 作・風間銀灰

それからしばらくして、ねえやは里に帰った。彼女の母親が死んで、幼い弟妹の面倒をみなければならないというのが、その理由だった。本当のところはわからない。ただし、その後の風の便りで、彼女は嫁いで、子だくさんになったと聞いた。 達者に暮らしているらしかったので、今日風車を見るまでは思い出さなかったのだが、ふと、どうして彼女はあのとき泣いたのだろう、と男は思った。幼い自分が我儘だったからか。だ…

続きを読む

冬桜 四の一 作・風間銀灰

その翌日、寺子屋の教え子が訪ねてきた。胸を患った、例の少年だった。助かったとはいえ、病み上がりで、まだ蒼白く痩せていた。だが目だけは、強く、いきいきした光を放っていた。 「ご無沙汰しておりました、先生」 少年はそう言うと、男の正面に、きちんと膝をそろえて座った。 「ご家族は達者か」 「はい、おかげさまで」 「もう出歩いてよいのか」 男の問いに、少年は少しきまり悪そうに身じ…

続きを読む

冬桜 四の一(続き) 作・風間銀灰

男はうろたえた。 「先生は、ご自分が助かることを信じていらっしゃらない。どうして、私が助かると信じたように信じようとなさらないのですかっ」 ここで少年は、はっと我に返り、目を伏せた。 「生意気を申しました。許してください。でも…万が一にでも先生にもしものことがあったら、自分は…」 彼の顔が、ほぼ真下を向いて、切れ切れの声が洩れた。 「…先生を殺したのは自分だと…そう思いなが…

続きを読む