冬桜 二の一 作・風間銀灰

「千住まで来れば、もうじきですな」
商人の、誰にともなく呟く声を聞いて、男は、もうすぐ旅の終わりだと人知れず微笑んだ。かなりの長旅だったが、あまり疲れを感じていなかった。
彼は、江戸に居る友人を頼って、はるばるやって来たのだった。故郷から遠ざかるにつれて、寂しさを感じるどころか、ある種の解放感が増していた。
別に何かをやらかして故郷を追われたのではない。むしろ、何もしなかったので居場所を感じられなかったのだ。大した家ではないが、出来の良い兄が、万事うまく仕切っていた。早くに父を亡くした家としては、幸運とも言えるほどだった。
父のいない子供たちを、母は厳しく仕付けたが、関心はもっぱら長兄に向けられていた。書物にかじりついてばかりいる、おとなしい弟は、あまり注意を払われなかった。
男は、そのことについて特に思うことはなかった。どの家でもよくあることだ。幼少の頃の寂しさも、子守のねえやが埋めてくれていた。そして、成長してからは、友と書物があった。
彼が書を読むのを、家族は勉強熱心ととらえていたが、実際のところ、学問だけでなく、文芸ものもよく読んでいた。読本の主人公に憧れ、そのようになりたいと、少年の頃は思っていた。
だがやがて、母が娯楽ものの本は取り上げ、厳しく禁じたので、男は、ものがたりへの憧れを、自ら筆を執ることで埋め合わせるようになった。他愛もないものがほとんどではあったが、友人たちは面白がって回し読みしてくれていたものだ。
だから、先立って江戸に出ていた友人から、寺子屋を手伝ってくれないか、と手紙が来たときは二つ返事で引き受けた。折しも兄が嫁を迎え、家はますます落ち着いて、男の居る必要はほとんどなかった。ここで無為に暮らすよりも、江戸に出て書物に囲まれていた方が良い。
~続く~

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック